オーロラの見える小さな村

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みなさん、お元気ですか?GRIDFRAMEの田中です。

<GRIDFRAMEという会社>

1年間、SOTOCHIKU通信を配信させていただいて、今回から2年目に入ります。読んでいただいているたくさんの方、本当にありがとうございます。今年も頑張って配信します。

でも、読んでくださっている方にも、そもそもGRIDFRAMEってどんな会社なの?とご存じない方もたくさんいらっしゃるのではないでしょうか?

そこで、区切りである2年目の最初に、少しだけぼくたちGRIDFRAMEについてご紹介させていただきたいと思います。

GRIDFRAMEは1998年に設立した27年目の会社で、これまでに500件以上の店舗やオフィス、スタジオ、住宅などいろんな空間をつくらせていただいてきました。建築から設計した物件もありますが、ほとんどの場合、建物の内部・外部空間や什器・家具に対応してきました。

表参道に本社及びSOTOCHIKUショールームを、墨田区錦糸町に自社工場を構えています。また、千葉県鋸南町のパクチー銀行もSOTOCHIKUショールームになっています。

工場では金属を主軸にあらゆる素材を実験/加工し、独自の仕上げを用いてコンセプトに合わせた設計施工を得意としています。

全スタッフが建築や美術を学んでおり、それぞれが自らで考えながらものづくりをリレーしていく「創造性の連鎖」(https://gridframe.co.jp/flow/)というシステムでデザイン/設計/制作・施工を行っています。

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GRIDFRAMEでは、ひとつの空間づくりには、つくり手が向かい合うべき素材採取→材料化→加工→空間化の4段階があると考え、それぞれの段階にプロジェクト名を冠して実行しています。

1.素材採取 SOTOCHIKU(ソトチク) https://sotochiku.com/

・・・地球と向き合って、空間づくりの素材を採取する

2.材料化 Materi-ars(マテリアルス) https://materi-ars.com/

・・・素材と向き合って、生かすために必要な手を加えて材料化する

3.加工 Synesdesign(シネスデザイン) https://synesdesign.com/

・・・材料と向き合って、<加工>方法を追求し、パーツ化する

4.空間化 Gridframe(グリッドフレーム) https://gridframe.co.jp/

・・・パーツに向き合って、上の3段階の痕跡とともにアセンブルされ
   空間となる

大地の息遣い、人の歴史を記憶するモノたちの息遣い、日々語ることなく手を動かす人たちの息遣い、・・・これらに向き合いながらつくることで、新しい空間が誕生し、未来へ向かって呼吸を始めます。

やがて、新しい空間にも時間が記憶されてゆき、いつかそこから<素材採取>され、次のサイクルへずっと循環されていくモデルになることをめざしています。

昨年は、能登での活動を中心に報告してきましたが、今年も継続していくためにはこのサイクルを止めてはならないと気を引き締めています。ぜひ応援をよろしくお願いいたします。

<SOTOCHIKUトレーラーver.1>

前号でご紹介したSOTOCHIKUトレーラー・プロジェクトのトレーラーを鋸南町のパクチー銀行で完成しました。

そこにあるモノで即座に空間をつくることから、熟考し注意深くアセンブルすることまで、自由な創造を愉しめるGRIDFRAMEシステムを壁に付けた小さな箱です。まずは、走行でネジが緩むことがないか、などのチェックをしました。組立の速さについても、対策を講じて、スタンバイ完了です。
これで能登だって、九州だって行けます。

試しに、第2回ペンキのキセキ(2024年4月)で佐谷恭さんと鴇田博雄さんの塗装した鉄板を割いて曲げたモノを挟み込み、夕陽の保田海岸で記念撮影。

その後、表参道SOTOCHIKUショールームへ、オープンルームでのお披露目のために移動。保田海岸で拾った流木を載せて展示しました。

<SOTOCHIKUショールーム202501>

今回の室内展示は、2024年の能登での活動を伝える写真を、寄付された能登瓦などと共に展示したモノが中心でした。また左の写真は、墨田区の工場で加工後に出るリサイクル鉄を集めて加工し機能を与え、その工場に勤める人々の日常を静かに伝えられるように家具などに落とし込もうとする、昨年後半に久保が開始したプロジェクトの成果物です。今後、この試みも発展させていきます。
ご来場いただいた方々、ありがとうございました。

今後は、一人一人に素材から空間までゆったりとした雰囲気の中で味わっていただける場にできたら、と思います。

次回は、3月に「企画展」を開催予定です。みなさんぜひお越しください。

<オーロラの見える小さな村>

能登や鋸南など東京を離れると、ぼくが20代の頃行ったいろんな一人旅の思い出が甦ってきます。能登や鋸南の山を歩くとき、当時の自然の中へ分け入った旅の情景が浮かびます。

これから能登はどうなっていくだろう?自然と向き合っていけばそこに、元に戻るでもなく、先へ進むでもないような豊かな生活が待っているのではないか、という未来をぼんやりとひとり夢想してしまいます。そのほうが人間にとってより幸せなんじゃないか、と。縄文時代じゃないんだから・・・と笑われるかもしれません。

でも、どこに住んでいても今の生活に疑問を抱く人は確実に増えているのを感じます。これからお伝えしたい旅の中で出会った小さな世界にも何か疑問を解くヒントがあるのかもしれません。

そんな思いで、今回は、オーロラの見える小さな村での経験をお伝えします。今年はオーロラの発生頻度が約11年周期で最も高くなる年らしいです。ぼくがその村を訪ねた年も最もよくオーロラを見れる年だったことをずいぶん後になって知りました。今日もその村の空には、オーロラの光が揺れているのでしょうか?

◆ 極北の大河ユーコン

1989年1月、ぼくは6畳一間のアパートで「極北の大河ユーコン」というTV番組を見ました。

アラスカ中央部を東から西へ流れるユーコン川のほとりにある人口80人の小さな村での秋から春へかけての半年間のドキュメンタリーでした。

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川の上流から氷が流れ始め、その量がどんどん増えて、轟音とともにぶつかり合い、巨大化した氷の塊が上陸して岸に近い家を潰すことすらある、ダイナミックな秋。

やがて川の全面が氷に覆われれて、周囲が静まり返ると冬。オーロラの季節がやってくる。真っ白な地上から、空に漂う緑色の光の帯を見上げる夜。

そして、雪解けの春。再び、轟音とともに、川から氷が消えていく。

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いても立ってもいられなくなり、貧乏学生であるにもかかわらず、数日後、ぼくはアラスカ行きの航空チケットを購入しました。

「ユーコン川のほとりの小さな村でオーロラを見たい」

3月2日、アンカレッジへ向けて飛行機は飛び立ちました。

◆ 村へたどり着くまで

アンカレッジはアラスカ南部にあるアラスカ最大の都市。まずは、防寒着とマイナス20度対応の寝袋を購入。そして、ユーコン川により近いフェアバンクスという町へ北上。ユーコン川は、ここからさらに150km北を流れています。

例によって、フェアバンクスで一番安いホテルに泊まります。さて、ここからどうするか。とりあえず、ホテルのカウンターのお姉さんに質問。

「ユーコン川のほとりの小さな村へ行きたいんだけど、どうやっていけばいいですか?」

お姉さんはロビーに座っているインディアンのおばさんを指差して言いました。「あの人はそういうところから来た人だから、話してみてごらん」

おばさんはメガネをかけた小柄でごくフツーのおばさん。同じ質問を投げかけてみると、「明日の朝、村へ帰るから一緒に来ればいい」と。

なんてラッキーなんだろう!

おばさんのアドバイスに従って、その夜のうちにできるだけたくさんの食料を買い込みました。

次の朝、6人乗りのセスナ(村への定期便)で、いざユーコン川のほとりの小さな村へ。

セスナは低い空を飛ぶ。空から見たユーコン川支流の蛇行には驚くばかりです。

上右の画像はグーグルマップから。中心の赤点に、私が約1ヶ月を過ごした、人口80人の小さな村スティーブンス・ビレッジがあります。

平野部を流れる川は自然の理によって蛇行していきます。日本なら、北海道の石狩川が有名です。少しでも曲線を描いて流れる部分は、遠心力によって外側の岸を削り、内側の岸を土砂で埋めていく。それを交互に繰り返すと蛇行した川ができます。

石狩川へ上ってくるシャケが有名であるように、ユーコン川には巨大なシャケ、キングサーモンが上ってきます。村の人々は短い夏に漁をして、村で1年分の仕事をします。そして、男たちは、冬は出稼ぎに出ます。スティーブンス・ビレッジは、そんな村です。

◆ 丸太小屋

スティーブンス・ビレッジに着くと、小さな丸太小屋へ案内され、「ここを使って」と言われました。いつもは娘さんが使っているそうです。

高校生くらいの年の息子ゲイリーを紹介され、彼が生活のためのいろいろを教えてくれました。部屋には小さなテーブル机、椅子、小さな鏡、その上で調理もできるドラム缶を利用した薪ストーブ、ベッド、古いテレビ、ビデオデッキ、トイレとしての蓋つきのバケツ(紙が敷かれ、消毒剤を吸収させてある)がありました。(右上の写真は、毎朝いろいろな模様でビニールの窓に降りる霜)

毎日、必要な分だけ薪割りをします。水は数百メートル離れた場所に共同の水汲み場があり、スノーモービルにタンクを載せて往復します。シャワーはないので、お湯を沸かして体を拭く生活です。1か月過ごして、不便を感じたことは一度もありませんでした。

薪ストーブでは2種類の薪を燃やします。火をつけるときは目の粗い燃えやすい木を使い、火がついたら目の詰まった木を入れて火を長持ちさせる。両方の組み合わせで、部屋の温度を調節します。

村の周囲には3種類しか木が生えていないようでした。そのうち薪に使えるのは2種類で、一方が目の粗い木、もう一方が目の詰まった木です。つまり、他に選択肢はありません。

都会を離れ、この極北の「陸の孤島」のような村での生活を経験させてもらって思ったことは、この村は、生活が成立するために過不足なく必要なものを自然から与えられている、ということです。

周囲の自然によって賄うことのできる適度な人数の人々が住み、均衡状態を保っている。ぼくは、この均衡状態に美しさを感じます。例えば、この木の話に美しさを感じます。まるで自然に「意志」があるかのように映るからです。

一方で、このようにモノが少ない場所で生きていけるのは、そこに代々住んできた人々の智恵を結集してきたからだと思います。自然が変われば、人々も変わる。そうやって、均衡を崩さない努力を続けてきたのでしょう。

この均衡が崩れると、他の地域にものを求めなければならず、交通が必要になってきます。村の話は、地域の話になり、やがて、国の話になり、地球全体の話になってくる。これが今ぼくたちが生きている21世紀です。

2種類の木の話は、何万という種類の話に拡大されます。構成要素は複雑に絡み合う。いったい地球上で起こっているどれくらいのことを私たちは把握し、理解することができるでしょうか。

そんな拡大された世界の中で均衡を保つことは、果たしてぼくたち人間に可能なのでしょうか?

◆ オーロラ

3月中旬までは、毎日のようにオーロラを見ることができたように記憶しています。ぼくがよく見ていたのは、20時くらいから24時くらいまでだったでしょうか。

北極圏にほど近いので、太陽の動きは水平に近い。地平を這うように動くので、なかなか沈まない。沈んでもなかなか暗くなりません。ともかく暗くなると、オーロラが見えました。

ぼく以外は村人という状況で、彼らにとってオーロラは日常に過ぎなかったから、ぼくはいつもひとりはしゃいでいました。だから、毎日、夜の空は完全に独り占めです。

凍りついたユーコン河の上に立って、その日もぼくは空を独り占めしていました。地平線より少し上から中くらいの高さまで、360度オーロラのカーテンがかかっていました。

ぼくは雪の上にばったり倒れ、仰向けになって空全体を見上げました。心ゆくまで。耳たぶが凍るまで。

この感動を誰かと分かち合いたいという気持ちになって、昼は日本へたくさんの手紙を書きました。今も分かち合いたいと思って、これを書いています。

「オーロラを見たい」という個人的な意志は、ぼくの世界の中で充足することはない、と信じていいのでしょうか。どんな個人の意志も、その先で社会へ向かっている、と信じていいのでしょうか。

ぼくはそれを信じて、人が意志を持って実現へ向けて動き出したとき、いつもそれを応援する人間でありたい、と願っています。

◆ スティーブンス・ビレッジでの生活

周囲が雪に閉ざされているため、昼の行動範囲は極端に狭い。散歩といっても、景色が変わるわけではありません。

凍りついた川へ下りて、ずっと上流へ向かって歩いてみたい衝動に駆られますが、気候がそれを許しません。きっと何時間歩いても、隣の村へはたどり着けないでしょう。

蛇行している川の周辺特有の三日月湖がまわりにたくさんあります。丸太小屋へよく遊びに来る子供、チャーリーのお父さんが、そこへビーバーを捕まえに行くということで、ついていきました。

ビーバーは食料になり、毛皮になり、油をとり、捨てるところは何もないそうです。

その日は単純な罠を仕掛けて、次の日にひっかかっているかを見に行く。2〜3度ついていったけれど、罠には全く変化がなかった。少なくとも、ビーバーが減っていく心配はありませんw。

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別の日は、ゲイリーが薪木をつくるために林へ入って木を切り倒しに行くと言うのでついていきました。日光の届かない林の中は耐えがたいほど寒い。高校生のゲイリーは身の周りの仕事を全てこなします。切り倒した木はほどほどの大きさに切り分けて、橇に乗せてスノーモービルで引いて帰ります。

スノーモービルは免許が必要なのかどうか知りませんが、警察官もいないこの町では問題になるはずもなく、子供でも乗り回しています。

ただ、ぼくの知る限り、誰も酒を飲みませんでした。外で寝てしまったら、死んでしまうからでしょうか。人口が80人しかいない村の規則でしょうか。

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ぼくが温かい場所を旅するとき、現地の人はよく笑いました。なんでも笑って済ませることができました。だが、寒い場所ではそうはいきません。

その日、ぼくはスノーモービルを借りて、5歳くらいのチャーリーたちを乗せて、飲み水を汲みに行きました。子供たちは、ぼくを遊び友達と思ってくれていて、どこにでもついてきました。その場所は人里を少し離れたところにあります。水を汲んで、帰ろうとすると、スノーモービルのエンジンがかかりません。10〜20分、いろいろ試しながら、そこで立ち往生していました。

そのうち、チャーリーのお父さんがやってきました。すぐに帰ってこないので、心配してくれたようです。コツがあるのか、彼がやるとエンジンはすぐにかかりました。

にっこりして「ありがとう」と言うと、彼から無言の鋭い眼差しが帰ってきました。ぼくは、彼のその目を一生忘れません。

寒い場所に生きる人は、自分で何でもできなければ、生きていけない。ぼくは、そこにいる資格がない、ぬるい人間だということを思い知らされました。

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この人口80人の村が、昔から何も変わっていないわけではありません。陸の孤島と言えども、文明の波は押し寄せています。

犬橇はスノーモービルに取って代わりました。スノーモービルが走った跡は、雪が硬くなりすぎて、犬が足に怪我をしてしまうのです。生活を支えていたシベリア犬たちは、機能的な役割を終え、たまにイベントとしての犬橇レースに出場する以外は、愛玩犬として飼われる存在に変わっています。

そして、この村にもテレビがあり、丸太小屋にはビデオデッキがありました。地上波の映りはよくなかったから、めったに見なかったけれど。

◆ 奇跡

この村へ来て、かなり日数が過ぎた後、ゲイリーが一本のビデオテープを持ってきてくれました。

再生を押すと、しばらくぼくは呆然となりました。・・・その年の1月に日本の六畳一間のアパートで観た「極北の大河ユーコン」だったのです。

番組の中では、ぼくがホテルで話しかけたお母さんジェニーをはじめ、目の前のゲイリー、そして、一緒に遊んだヘンリーJr.、チャーリーなどの子供たち、彼らがすべてキャプション付きでインタビューされています。

ぼくは「ユーコン川のほとりのちいさな村」としか記憶していなかったから、そのときまでこの事実に気づかなかったのです。

・・・ぼくはいつのまにかテレビのブラウン管の中に入り込んでいたのです。

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どうしてこのようなことが起こるのだろう。なぜ、そのとき世界はぼくに対してあんなにも優しかったのだろう。

もちろん答えはわかりません。

しかし、始まりは分かります。

「ユーコン川のほとりの小さな村でオーロラを見たい」

この『意志』を持ったことです。

意志があればかなう。そう信じていいのかどうかわかりません。その答えは、ぼくが死ぬときまでとっておかなくてはならないと思っています。

しかし、少なくとも、純度の高い意志は、力を持っているのではないか、と思います。このときからぼくは少しだけ変わったかもしれません。意志がかなわなかったとしたら、おそらくそこには余計なものがまとわりついているからでは、と自分に問いかけるようになりました。

◆ 別れ

村を離れる日、ゲイリーはスノーモービルで数10キロ凍ったユーコン川の上を走り、幹線道路まで送り届けてくれました。ぼくが「ヒッチハイクで帰りたい」とわがままを言ったからでした。

幹線道路に着いて、別れ際にゲイリーはこう言ってくれました。

「氷が解けると、一面が緑の世界に変わる。生き物たちがみんな目を覚ましてにぎやかになる。ぼくらは船を出して、キングサーモンをたくさん捕まえて、一年分のお金を稼ぐ。今よりずっと楽しいぞ〜。その頃、またおいでよ。」

短い夏は、それだけに濃密な夏であるらしい。虫たちの勢いもすごい、と聞きます。

彼がぼくに見せたかったのはきっとあらゆる生命が躍動する夏だったのでしょう。

フェアバンクスまで大型トラックの運転手が乗せてくれました。

「何してたんだい?」

「大学の春休みの旅行です」

「・・・。俺だったら、あったかいビーチで寝そべって過ごすけどなあ」

2025 年 1 月 31 日 GRIDFRAME 田中稔郎

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