カタチ/表面
プロジェクトの中で、「汚しうる美」を常に求めることはできなかった。
望まれていないことが多いと感じていたからだ。
ぼくは、全ての空間にGFらしいカタチ、つまり形態を与えることを提案の必須条件と信じていた。
それは、ぼくが手描きのパースで提案していたということに関係が大きい。
3Dモデリングでの提案が通常になってきても、ぼくは手描きを続けた。
手描きでしか表せないカタチがある。そう信じたからだ。
だが、いずれ、社会がそんなカタチを求めなくなった。
また、ぼくがカタチの方に必然性を見つけることが困難になってきたというのもある。
ぼくは、手描きでパースを描くことがめっきり少なくなった。
だが、時は過ぎて、手づくりが求められる社会が戻ってきた。
では、ぼくに手描きの必然性は戻ってきたか?
いや、ABCD論の考え方を手に入れて、ぼくらは手描きを必要とするのは、BやDの仕事を求められた場合だ、とはっきり言える。
そして、BやDの仕事は、グリッドフレームの根源的コンセプトである「汚しうる美」に戻れる。
汚しうる美には二つある。
ひとつは、壊しうるカタチ。もうひとつは、汚しうる表面。
Bの仕事には、その両方を存分に入れていく。Dは選択的に入れていく。
AやCの仕事には、汚しうる表面を入れていく。
汚しうる表面は、ある程度、社会の承認を得た部分があるからだ。象限に関わらず、社会は汚しうる表面を求めている。
貼りモノの世界は斜陽にあるだろう。それだけでも、社会は進んだ。(20210412)
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