映画「パラサイト 半地下の家族」において、主人公の男が世話になった社長を咄嗟に刺し殺してしまうのは、社長が死んだホームレス然の男の放つ悪臭に顔をゆがめたからだ。
主人公が咄嗟に刺し殺してしまうほど、その行為に対する憎しみは爆発的だった。元々、短気な男ではない。冷静であれば、こんなことはしない。この憎しみが巨大な怪物となって意識の底に潜んでいたことが分かる。この感覚をぼくは主人公と共有できる。
それは、かつてぼく自身が、この社長のようにホームレスや貧しい人の匂いに耐えられず、いやもしくは、匂いを想像しただけで嗅いでもいないのに、かれらを避けてしまった経験があり、その自分に対する動物としての強い嫌悪を忘れられないからだ。
匂いとは社会的である。ぼくが子供の頃は今のような芳香剤は存在しなかった。ぼくは子供の頃まではいろんな匂いを嗅いできたけれど、だんだん世の中は無臭か、もしくは化学的な「いい匂い」で溢れるようになってきた。
「いやな匂い」と社会的に断定された匂いは、全てのネガティブなものと一緒に蓋をされ、外部に追いやられた。それらの匂いは人間を含めたあらゆる生命活動の中で必然的に生じる。「社会的」であるためには、その匂いを常に洗い流し続けることが条件になる。
きっと、「パラサイト」の監督は、人間が幸せになれない根本の理由はこの構造にあることを伝えたかったのではないか。もちろん、匂いだけの問題ではない。
社会が決めた「いい暮らし」は余りにも薄っぺらい。住宅メーカーのCMのような暮らし、といえばわかりやすいだろう。
今日、友人から次のメッセージをもらって、このことに気づいた。
「外部的、他者的なもの・・・こういったこと?もの?との距離感とか、付き合い方が人の幸せ感をきめるのかも知れません」
この映画でガーデンパーティに集まる似非善人たちは、金持ちだが幸せではないだろう。
外部性との距離感・付き合い方。ここに人間の本然が表出する。
先述の自分に強い嫌悪を抱いて以来、ぼくはいつの間にか空間に外部性を取り込むという課題を立てることに行きつき、それに熱中してここまできたのだが、このことを今日ハッキリと自覚したような気がしている。
ぼくがこの人生で立ち向かえる倫理的な課題があるとすれば、これくらいしかない。
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