GRIDFRAMEがずっと目指してきた何か
ニューヨーク州バッファローで、スクラップヤードのスクラップという捨てられた意味を剝ぎ取られた存在に一対一で向き合うことで、構造し、意味を生じさせようとしたのが、GRIDFRAMEの始まりだ。
無意味と思われるものに対応し、構造して、意味が生じる。ぼくはこの段階をライフワークにしようと会社を興したのだが、実は、より大きな問題はその後にあった。意味が生じたら、その意味を取り去らねば、新たな創造に向かって対応することができないのだ。意味の存在とは、一方で、ある構造(システム)の中で閉じることに等しいから。未来へ向かって開くためには、閉じられた世界は、やがて壊されなければならない。
いかにして閉じられた世界が崩壊するか?これが暴力的に行われてきたのが、これまでの世界史といえるのではないかと思うが、それではその度に幸福が遠のいてしまう。時代が進んでも、ぼくらは以前より幸せにはなっていない、と多くの人が感じている。
それはなぜか?閉じられた世界で権力を得た勢力はその構造を温存しようとし、そのために他者へのハラスメントが横行するようになるのが常だからだ。ハラスメントとは、自分は変わることなく、相手を自分の思い通りに変えようとする行為だ。
ハラスメントを失くし、あらゆる多様性を認めることであらゆる他者との平等な関係性を成立させ、自分の内部では理解できない外部との交通を促し、閉じられた世界を壊していく。そうして、次のサイクルを起こしていく。
時間を記憶したモノを素材して新たな空間に生かすSOTOCHIKUという試みは、この対応、構造、意味の生成、そして、意味の消失、対応、・・・という4段階の循環を目的とする。
(これはABCD分析のA→B→C→D→A・・・に対応するように見える。後に考えるべき課題だ。)
この循環を十分に継続させるために、課題は二つある。
1.SOTOCHIKUという行為が、ビジネスに吞み込まれてはならない。そのままでは捨てられてしまうものが、新しい空間の素材として寄付される。決して、商品として流通させない。
捨てられるものには、捨てられるものの自由という揺るぎない魅力がある。それを失わせない。
2.SOTOCHIKU空間のイメージが、「無秩序」という言葉にまとめられ、そのビジュアルイメージに閉じられてしまったら、SOTOCHIKUもそのイメージとともに、すぐに飽きられてしまうだろう。
社会が、SOTOCHIKUに対して概して好意的であることには、むしろ気を付けなければならない。世の中は単に「無秩序ブーム」なだけかもしれない。外部は、常に内部化される傾向を持つ。
SOTOCHIKU素材で、どの言葉でも表せないような唯一無二の空間をつくることが急務だ。内部化され、飽きられてしまわないためには、違うイメージの空間をつくり続ける実践しかない。ぼくらの真価が問われるのはここだ。
決して、言葉の世界に安住してはならない。(20221219)
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