これから

福島第一原発の震災による事故による全村民避難指示が7年前に解除され、かつての人口の3分の1である465人が住んでいる村からとある施設をつくる問合せをいただき、昨日うかがってきた。

案内していただいた丘の上から、この風景を見下ろしながら、むらづくり公社のMさんがこうおっしゃった。

「ここからの景色は今初めて見る方にはただの田舎の風景でしょうが、2年前までは除染の黒いバッグに埋め尽くされていたんです。そして、今年初めてここから黄色い稲穂の風景を見ることができたんです。だから、ここに住んでいる人間が見ると、ようやくこれから生活を良くしていくことに目を向けて始めることができる、という思いになれる風景なんです。」

震災から12年以上も止まっていた時間が動き始めるのを見た。

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時間とは、地球のすみずみで常に一定の速さで刻まれているか? 

ぼくらは、時間という定規の、等間隔に刻まれた目盛りの一点に産み落とされたのか?

古代の日本人はそのような時間の捉え方をしていなかったかもしれない。 

夜明けのことを「夜のほどろ」と表す歌が万葉集にある。 

「ほどろ」とは、解く(ほどく)、施す(ほどこす)、迸る(ほとばしる)であり、「ゆるみ、くずれ散るさま」を意味する。動かない固い暗闇が朝陽に融けて崩れ散る動的な様子を表すのが「夜のほどろ」だった。 

「時」は「解き」、あるいは「融き」だという説がある。 固まって動かない永遠性が解体され、その瞬間に「時」が生まれる。 

そして、解かれたものはやがて、また結ばれ(=「むすび」)、固まって動かなくなる。 

時間は、生まれて、消えることを繰り返す。止まっているところに時間は存在しない。

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ぼくら人間がこの世界に体一つで生まれてきたとき、皆すでに永遠性を内包している。人間一人ひとりが、他の動物から見ればほとんど神のごとく圧倒的に優れた能力の持ち主であり、その意味では個人差などわずかな誤差に過ぎない。豊富な資源に満ちている美しい地球環境も含めて、本来ぼくらは何かを求める必要がないくらいに与えられて生まれてくる。そのような認識を前提とすれば、古代の生活のように、時間とは「永遠を基盤として、それが解かれるときに生まれ、やがて結ばれたときに消えるもの」として捉えることができるだろう。 

だが現代社会は、体一つの人間を何も持たない数字のゼロと見なす。そのために永遠を常に渇望して生産に駆り立てられ、数字を増やそうとする。数字に上限はなく、いくら大きな数字を手に入れようと永遠に届くことはない。だから、人々はいつも不安を抱えている。もっと生産しなければ、と均質な時間の目盛りの上でひたすら機械のように働き続ける。 

この定規の上から、降りるにはどうすればよいか? 

そのために、ぼくらは空間づくりの中でなにができるだろうか。

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ぼくらがABCD分析と呼んで、空間をつくる際に人についてさまざまなタイプを考察するための座標平面がある。

人に任されて自分の好きなものをつくることを理想とするグリッドフレームは、Bの象限をベースとする。

実はこの分析は、ものづくりの世界のみに留まらない。

C、A(左象限)は国家や会社など、ある閉じた空間が前提にあり、個人のアイディアよりはその集団のルールが優先される。そこでは、一般的(多対一)な価値の実現が目指され、予定調和の結果を求められる。

B、D(右象限)は、あらゆるルールの外に出て、何かに一対一で向き合って、予定不調和の世界を創造していく領域である。

人はABCDの固定された場所にはおらず、誰もが4つの領域を移動しながら生活全体を生きているが、ほとんどのビジネスは左象限で行われており、新自由主義の世界は、パラレルワールドのように在る右象限の存在を簡単には認めない。

左象限は閉じているがゆえに、窮屈な環境が生じやすく、さまざまストレスがハラスメントを生む構造を内包している。

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ここまで読んで気づいた人もいるだろう。

左象限では、ぼくらは自分をゼロから始まる存在とみなし、生産性を第一義として、時間という定規の、等間隔に刻まれた目盛りの上を歩いている。

右象限では、ぼくらは自分を何かを求める必要がないくらいに与えられて生まれてきた存在とみなし、固まった何かが融けると同時に生まれる時間の中で、嬉しいことも悲しいことも含めてまるごとの人生に一対一で向き合う。

グリッドフレームは、左象限の「閉じているけれど守られている世界」と右象限の「守られていないけれど開いている世界」を「閉じ込められたり、放り出されたり」でなく、自分の意志で愉しく移動できるような空間をつくっていきたい。

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では、それはどのような空間か?

まずは、オフィス、学校などの空間に手を加えることを提案したい。

これらの既存空間は、全体が左象限の空間(機能空間)で満たされていることが多い。その面積20%を目途に右象限の空間につくり変えて、その境界を間地切る。右象限の空間は、機能から離れて自分を全く別のモードに切り替えられる場所である。

この空間をつくるには、創造性の連鎖やSOTOCHIKU素材を使用するなど、アーティストが手づくりでつくり進めていくようなつくり方がふさわしい。また、完成度を全く問題にしないことも重要だ。

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冒頭の福島の村の風景の変化が合図となって「止まっていた時間が動き出したこと」を知った住民は、同時に、左象限から右象限へ移動している。

時間はそれぞれの人の中で常に重層的に流れているけれど、この大きな流れが右象限の底流を成し続けるために、ぼくらの全力を尽くそうと思う。

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