現代の漂着神をつくりたい
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みなさん、お元気ですか?GRIDFRAMEの田中です。
<現代の漂着神をつくりたい>

9月に能登町宇出津のOさんを訪ねたとき、「能登は日本列島の中で大陸に向かって突き出している場所だから、外浦(北側の海岸)には大陸から見たこともないようなモノが流れ着くことが多かったんでしょう。見たこともないモノを見たら、それを神様として崇める気持ちは分かる気がします。そうして、能登にはたくさんの信仰が生まれたんだと言われています。」ということを教えてくださいました。
羽黒神社の高山宮司のブログ(https://ameblo.jp/hagurotetsu/entry-12318399903.html)には、漂着神について次のように書かれています。
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漂着神を祀る神社の実例や、そのご祭神について、当羽黒神社のように、修験者が信仰の流布の為に、海路でご祭神を勧請した例もあれば、明らかに、朝鮮半島系と思われるご祭神、それも、おそらくは、大陸の争乱から逃れて能登にたどり着いた人物を、手厚くもてなし、後に、集落の守護と祀った例、また、不思議な漂着物に神威を感じ、祠(ほこら)を建てて祀った、まさに漂着神の神社等、多種多様でありますが、「海の向こうからやって来るものは、必ず福をもたらしてくださる」または、「海の向こうからやって来るものは、恐ろしいもの」という、海洋民族独特の考え方が根底にあったのは確かかと存じます。
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古代の漂着神は強烈な好奇心と共に迎え入れられたことに疑いないですが、この強烈な好奇心は信仰心に向くのみならず、探求心にも向けられたでしょう。それらが一体となって、能登の文化を形成しながら現在につながり、あばれ祭などの祭りの文化なども含めた生活全体に色濃くその影響を伝えているのだと理解しています。
初めて見るモノに対する人間の感受性は、きっと昔も今も変わらないでしょうが、情報に溢れている現代は、大抵のモノはどこかで見たことがあるような気になっているため、なかなか「何かを初めて見る」ときの心の昂揚を体験できない時代に入ったのかもしれません。
とはいえ、例えば、自分が100年前の人と比べて莫大な知識を持っているわけではないし、単に処理しきれない多大な量の情報がフワフワと周囲に浮かんでいる中で生きているだけのような気がします。そんな中で、ワクワクしながら生きていける唯一の方法は、結局いつも書いている通り、心を疎の状態にして一対一で向き合うことしかないと思います。
漂着物と向き合うのはその代表的な一つだと思います。こちらが選ぶことができない向こうからやって来るモノとの出会い。それは日常の中にたくさんあるのですが、ぼくはその多くを「忙しいから」と見逃してきました。「来ますが如し」と書いて如来と読む。今はそんな言葉を思い浮かべます。
60年前くらいに、浜辺にたどり着いた漂着物の寄せ集めで自邸を建てた人がいます。
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伴野一六は海辺の砂浜に何処からともなく流れてくる、廃品の数々、手鏡、テレビのブラウン管、木片、電信柱、難破船の残骸なぞを拾い集めては持ち帰った、そして、それらの今はその本来の用を果たしていない物体に彼の特権的な薄暗がりを持つ工作所で新しい生命を与え、この不思議の国の部品としてはめ込んだのである。
伴野一六、不思議の国の得も言えぬ優しさ懐かしさは、窓にブラウン管が見事にはめ込まれていたり、電信柱が構造の中心になっていたりという、建物のいたるところに見られる廃品転用の妙であり、用を果たさなくなったものへの伴野一六の暖かい眼差しなのではないだろうか。
(石山修武著「バラック浄土」p.132)
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伴野一六も漂着物一つ一つに対し、一対一で向き合って、それらを加工しアセンブルしたに違いありません。そのような方法で自分が美しいと思う空間をつくることができれば、きっとどの集合にも属さない空間、・・・つまり、誰も排除しない、誰もが入りたくなる空間を実現できる。この建築を知ったときから、ずっとそう考えてきました。漂着物は理想的なSOTOCHIKU素材のひとつです。
冒頭の写真は、千葉県鋸南町の保田海水浴場ですが、おそらく海の向こうの三浦半島、伊豆半島や大島などから大量の流木が流れ着くのでしょう。The Art of Tea TOKYOに置き什器を2つ追加することになって、この流木を集めに行ったときの1枚です。
それらを祠に入れて祀るような什器をつくりました。入口には、地震で壊れた羽黒神社の御輿庫から来た扉。これらが一直線に並ぶように配置されています。

上の写真で、入口側什器の中の流木のシルエットは、漂着神が座している姿にも見えませんかw。
<GRIDFRAMEの壁が道を走る SOTOCHIKUトレーラー・プロジェクト>
2024年は、東京を離れて活動することの多い1年でした。千葉県鋸南町では、4月と10月に「ペンキのキセキ」@パクチー銀行を行うなど毎月のように通いました。また、「能登地震で壊れたモノを未来へ生かす」プロジェクトでは、3月からスタッフMさんが11回、ぼくが5回、奥能登を訪れました。
特に、奥能登へ車で行くには、高速を使っても片道9時間がかかります。年間でざっと200時間以上を移動時間として過ごしたことになります。この時間を有意義なものにできないでしょうか?
また、能登でも鋸南町でも、SOTOCHIKUというぼくたちの独自の試みを分かっていただくこと、興味を持っていただくことに、どれだけの労力と時間を必要としたでしょうか?
ならば、移動するだけでSOTOCHIKUについて知っていただこう、と考えたのが、SOTOCHIKUトレーラーです。まるで見慣れない漂着物のように、前触れもなく訪れるのですw。ぼくらは勝手にワクワクしてます。
SOTOCHIKUトレーラーは、シンプルな鉄のフレーム構造に、GRIDFRAMEシステムをつけたり、網を付けたりすることができるため、さまざまな素材を壁に固定することができます。組合わせる素材によって容貌は変幻自在です。
かつてフレーム構造にGRIDFRAMEシステムでつくってきたモノを、およそ30年前のアメリカ留学時代に鉄スクラップを収集してつくった壁まで遡って探してみました。


「見向きもされないモノを見られる場に持ち込む」
・・・これを実現するために考案したのがGRIDFRAMEシステムです。こう書くだけでもラディカルに感じられるかもしれませんが、このコンセプトの源である言葉は、もっと鋭利に尖っています。
「なんぴとにも眼をそむけることを許さず、しかもなんぴとにも眼をそむけさせずにおかない」(森敦『意味の変容』p.5)
森敦は、「全体概念」は必ずこのような矛盾をはらんでいる、と書いています。「全体概念」という言葉はいろんな言葉に言い換えが可能だと思いますが、とりあえず「本物」という言葉に置き換えてもいいと思います。
「本物」に出会える空間をつくりたい。しかし、空間は強いるようなものであってはならないはずです。だから、尖った角を丸くしてこのページ冒頭のGRIDFRAMEのコンセプトにしました。つまり、「本物」はそこに在るけれど、なんぴとも見なくてもかまわない。見たい人が見たいときにだけ見えてくる。空間とはそんな感じががいい、と思っています。
スクラップなどの無秩序性の強いモノが目の前に広がっていると、無秩序性に圧倒されて、怖さを感じてそこにいられない人がいます。だから、GRIDFRAMEシステム(縦横30㎝単位の格子状骨組)をその前に持って来て、無秩序性を和らげるとともに、格子が写真のフレーミングの役割をして、一枚一枚の写真のように切り取って見入ること、つまり一対一で向き合うことが可能になると考えています。

そこに「本物」を発見する人がいます。
この「本物」の持つ美しさを共有するために、SOTOCHIKUトレーラーでいろんな場所へ空間を運んでいきたいと思います。興味を持って声を掛けてくださる方がいらっしゃったら、とてもうれしいです。






↑ 鉄スクラップ、新聞紙、野草、針金、CDケース、落ち葉などを素材とした1990年代のGRIDFRAMEシステム制作例


↑ フレームのみのSOTOCHIKUトレーラーと牽引車の準備
<渋谷敦志さんの写真集/写真展「能登を、結ぶ。」>

能登町宇出津のあばれ祭でお会いした写真家の渋谷敦志さんは、能登地震の翌日1月2日朝から奥能登へ移動し、多くの箇所で道路が寸断される環境下でシャッターを切り始めた方です。
被災地でカメラを向ける中で出会った、力強い輝きを放つ人々。彼らの生きる姿を活き活きと伝えてくださいます。天災を「あたわり(運命づけられたもの)」として受け止める彼らは、能登に伝わる昔ながらの自然と共存する生き方で坦々と日々を過ごしているように映ります。
過疎が進む地域では、少人数が暮らす集落を復旧するために膨大な金額を注ぎ込むことに対して、経済合理性の観点から疑問符が打たれている現状があります。もしかしたら今後、行政が復旧をあきらめる地域が出てくるのかもしれません。
では、グローバル経済から切り離されたとき、過疎の集落は存続できないのか?実は存続できないどころではなく、都会の生活を凌駕する新しい豊かさをそこに見い出すことができるのではないか?
そんな予感さえしてしまう素敵な写真の数々を見せていただき、ぼくらの今後の生活の豊かさについて、深く考えるきっかけになりました。
写真展には、ぼくらが能登で寄付していただいたSOTOCHIKU素材も、いくつか置かせていただいています。

<SOTOCHIKUショールームのオープンルーム>

渋谷さんの展示場所から、ぼくらのSOTOCHIKUショールームまでは歩いて20分くらいです。そこで、ぼくらも便乗してオープンルームを開催することにしましたw。ぜひこちらへもいらしてください。ゆったりとコーヒーを飲みながら語り合いましょう。
日時:1月10日(金)~12日(日)10時~17時(12日は16時まで)
場所:東京都港区西麻布2-20-4-1F GRIDFRAME内
<みなさんからのご感想>
SOTOCHIKU通信を始めて、ちょうど1年が経ちました。ぼくにとって書くことは、空間をつくることと同様に、見えない未来へ向かうことであり、細い糸を切れないように注意深く辿りながら先へ進んでいくようなスリリングな作業です。だから、どこに辿り着くのかは書いてしまうまで分かりません。そんな文章にお付き合いいただいた方々に心から感謝いたします。
今回は、2024年の締め括りとして、たくさんいただいた感想の中から、いくつかを紹介させていただきます。
【vol4 「セクシー田中さん」の問題について MTさんからのご返信】
漫画を描く、ドラマ化する・・・結論が非常に納得できる興味深いものです。
誰と仕事するか、私が抱えているモヤモヤとしていることの答えの1つになりそうです。
【Vol5 奥能登の未来像について TOさんからのご返信】
SOTOCHIKU通信を見て、復興の進んでいないのに驚きました。
能登のSOTOCHIKU第一歩は小さいでしょうけど、波紋は響くと思います。
地元や周辺県のボランティアグループ・NPO、工務店や建設会社にこのシステムが知られるとよいのですが。
【Vol5 奥能登の未来像について SOさんからの返信】
能登の一連の写真と文章を通して、様々なことを感じました。
崩壊するということは、凄いことだと改めて感じます。
一つの歴史に一度終止符が打たれるという意味は、ここまで様々なものを浮き彫りにさせるのだということを感じます。
松波酒造さんの酒蔵も、150年の歴史の中で携わり続けた方々の息吹や想いが、その倒壊した家屋や営みの道具の一つ一つから、倒壊して終止符が打たれた故に、ありありと克明に浮かび上がってきているのを感じます。
これほどの想いを込めて酒造りに年輪を刻んでこられたんだなぁ…. というその思いが、写真に写る家屋や道具の一つ一つから深々と滲みだしてきています。
多分、震災が起きずにそのまま操業されていれば、ここまでに深々と多くの方々が時代を超えて浸透させた想いや気持ちは浮き彫りにならなかったことだと思います。
まさしく、田中さんの米国学生時代のスクラップヤードのスクラップが同じ意味ですね。
ものは、生命を全うした後の姿に、その命の意味や価値をより深く簡潔に表現してくるのでしょう。
東洋医学は、人間を魂魄と定義します。
魂とは霊体であり、魄とは肉体です。
魂は死して天界に上り、魄は骨となりて地界に還る、とされます。
ものには、魂が宿ります。
それは、生命体のみならず、道具でさえ、建物でさえ、そこに携わる者の気持ちや想いが魂として宿ります。
その宿された魂こそが、ものに命を吹き込み、その命が生命を癒し、生命に感動を与えるのでしょう。
しかし、魂の波動にも正邪があり、邪の命を吹き込まれたものは、生命を朽ちさせ、生命を頽廃せしめます。
いかに正しい命を吹き込み、その命のバトンをつないでゆけるのかが、平和への鍵になるのだと思います。
田中さんの一連の活動を眺めていると、死してもなお、正しい命の吹き込まれたものを選別し、そのものの命を再び蘇らせ、人や生命の生きる力の源にされようとしていますね。
素晴らしい活動だと思います。
【vol6 漫画家さんのオフィスについて MGさんからのご返信】
人生の一期一会性をあえて計画できるような分野でもやってみることによってよりヒリヒリするような緊張感や臨場感をつくっていくものにあたえる、という手法は私も有効であるような気がしていました。
田中さんたちの活動がキースジャレットのインプロヴィゼーションのような時代を超えて残るような仕事になっていくといいな、と思います。
【vol7 漫画家さんのオフィス空間について KMさんからのご返信】
私が「写真で世界を平和に」と志を持った一つの原点が、災害で流されたアルバムや写真、それを拾いにいらっしゃった地元の方の姿です。
震災からの復興、再生、を強烈に感じることができるもの、大変素晴らしく貴重な素材ですね。
私もぜひそのように自分の原点にまつわるような意味、意義のある素材で店舗を彩ってみたいです。
【vol8 あばれ祭について YEさんの感想】
読んだり写真を見て
とても考えさせられました
モノに宿る魂は壊れた町の方にある
空間を作るのに
言葉はとても大切なのですね
壊れた建物の中に美しさや力強さ 命があり
自分も少し救われた気がします
感性で動いた後で
常識的な反省をして苦しかった分 もう少し 自由な答えを探してみようかと
【vol9 The Art of Tea の空間について JUさんからのご返信】
本物に辿り着いた気がします。
これからを楽しみにしています。
【vol9 The Art of Tea の空間について HYさんからのご返信】
『小さなプロジェクトでいいんです。ぼくらに能登半島地震で壊れた空間を再生するチャレンジの機会をいただけないでしょうか?』
って凄く意味ある行動だと思います。能登の人には不謹慎に聞こえるかもしれませんがとても楽しいプロジェクトになると思いますし、誰もが良い方向に向かうことだと思います。
【Vol11 ペンキのキセキについて AMさんからのご返信】
今回もいろんな知らない世界を知ることができました。「REBIRTH」素敵な質感ですね。(ずっと以前に、ロスの海岸の廃屋の内部を撮影した写真集を買って、内部を燃やしたり、次第に壊れていく中にペイントがされて変化していくもので、いつも触発されていたのを思い出しましたが、そのタイトルを忘れてしまいました)今回は特に、「海染め」の鉄板に心惹かれました。一瞬のカタチを写し取った鉄板は、質感量感を持った写真のようで、時間が刻まれているという点で最初期の録音の、振動の痕跡を写しとるフォノトグラフをなんとなく連想させました。実際に見た時の複雑な表面のうねりや光りの反射や質感を、画像から想像しています。
【vol11 「ペンキのキセキの軌跡」について SSさんからのご返信】
今号も楽しく読ませてもらいました。
リンク先の論文を読んで、SOTOCHIKUについて少しだけ理解が進んだ気がします。
SOTOCHIKU通信を最初に読んだ時に感じたのは、
“自分には魅力のわからないものに魅力を感じる人がいることに対する面白さ”
だったんですが、
こうして1か月単位にSOTOCHIKU通信を読んでいくことで、
田中さんがSOTOCHIKUの何に魅力を感じているのか、
少しずつ朧げですが見えてきて、立体感が出てくるような感じがして面白いです。
人によって、本当に世界の見え方が異なりますね。
それでいて、根底の深いところには共通するもののあるような気もして面白いです。
【vol9 The Art of Tea の空間について 能登町で瓦を寄附してくださったMIさんからのご返信】
10月に上京した際、合羽橋へ寄ってみました。
感想と言ってもアートや建築は素人ですので、合羽橋は雑然と多くの品物が並んでいるお店という
イメージの中、スッキリと落ち着いた感じのお店だと感じました。
あの場に立って、ふと両親の事を思い出しました。
私の両親は共働きで、私達兄弟は学校の参観や運動会等、母が来る事ができず淋しい思いをしました。あの頃は共働きの家庭は少なかったんです。両親とも宇出津の出身では無いので、私が生まれた頃に中古の家を買って住んでいました。
そんな両親が頑張って、初めて新築した家が今の家屋。その一部が、別の場所で生きている、そんな事を思いました。
東京は、私が学生時代、人生で一番楽しい時期を過ごした所ですし、末永くあの場所に残ってくれればと思います。
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他にも、ご紹介したいご返信ばかりで、みなさんのご返信によってたくさんの気づきや力を与えられ、1年間続けてきました。読んでくださっているみなさんに、深く感謝しております。
<2024年の最後に>
通信の始まりと同時に能登地震が起こり、ぼくらにできることで貢献できないか、と能登は通信の中心課題になりました。SOTOCHIKU通信は、スタッフM さんが能登へ通い続けて、体を張って災害ボランティアを続けながら、まったくご縁のなかった土地に関係を構築してくださった記録でもあります。
壊れたモノの解体は日々進んでおり、それは喜ばしい側面もありながら、能登に流れた時間を記憶する「魂の宿るモノ」がどんどん姿を消していくのを、ぼくらは複雑な気持ちで見ています。
果たして、能登の未来はどうなるのか?能登の神々が宿るような風景は残されるのか?あの燃えるような祭りは未来も続いていくのか?
来年のうちには壊れたモノは消滅してしまうかもしれません。しかし・・・ぼくらが能登で壊れた空間を再生するチャレンジの機会はまだ訪れていません。その活動を支えるためでもある、能登の壊れたモノを東京周辺で空間づくりに生かすプロジェクトもごく少ない状況です。
ぼくの正直な気持ちとして、「助けてください」と言わざるを得ない状況です。もし、ご賛同いただける方がいらっしゃれば、ぜひお力を貸してください。
最後になりましたが、能登だけではなく、千葉県鋸南町などさまざまな場所とのつながりを深める1年にもなりました。来年はSOTOCHIKUトレーラーを牽引して、さまざまな場所を訪れたいと思います。
来年も、SOTOCHIKUの様々な活動について、お伝えしたいと思います。どうか、よいお年をお迎えください。
2024 年 12 月 31 日 GRIDFRAME 田中稔郎
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