対偶命題と外部思考

森敦「意味の変容」に、内部と外部は対偶空間をなす、ということが書いてある。

論語の「未だ生を知らず。焉んぞ死を知らん」という内部思考(主観)を、その対偶命題をとって「既に死を知らば、何ぞ生を知らざらん」という外部思考(客観)に変え、双方から思考することで、主観と客観を一致させて空を悟る、と説明している。

これが何を意味しているのか、を30年間わからないでいたが、今、もしかしたら、その意味に少し触れたかもしれない。

それは、2011年に書いた下記のブログの内容について、改めて考えたときのことだ。

ウイリアム・モリス – gridframe001の日記

内部・外部とは、ABCD分析で言えば、左の象限CAを内部、右の象限BDを外部に置き換えられると考えている。

森敦は内部を現実、外部を実現に対応させている。内部とは共同体内の生活でそこに起こることは何の不思議もない予定調和の範囲内、つまり「現実的」な世界だ。一方、外部とは「現実的」な世界の外であり、奇跡なども含めて、ぼくらの想像を超えた何かが「実現」される世界だ。

上記のブログを書いたのは、ウイリアム・モリスが起こした「アーツアンドクラフツ運動」の「丹精込めてつくられたものは、上流階級しか手に入れることができない」という何の不思議もない結末を内部思考と捉えて、その対偶命題である「大衆が手に入れられるものは、丹精込めてつくられていないものである」に現実をひっくり返せるような可能性を感じたからである。

そのときに突き詰めていくべきことはただ一つ。「丹精込めてつくられていないもの」とは何か、ということだ。

例えば、大衆の中には廃墟が好きな人がいる。場合によっては、どんなきれいな家よりも、そんな雰囲気の中で住みたいという人もいる。廃墟とは、丹精込めてつくられたものを、時間という自然が壊していく、もしくは消していく途中にあるものだ。もう誰がつくったか、などで語られることのないものが多い。

そのような人から新しい空間の依頼を受けるときに、最初から「丹精込めてつくられたものをつくる」という選択肢はない。つくり手の情熱からすっかり解放された空間を「丹精込めてつくる」のみだ。

ぼくはふざけて言っているのではない。

対偶命題について考えれば、内部に閉じ込められても、外部へ出る方法を探すことができることに確信を持ちつつある。

上記ブログでは、「丹精込めてつくられていないもの、もしくは、それを使い手に感じさせないもの。そのようなものでなければ、次の創造へとつながっていかない。」と書いた。

内部思考のみでは未来が閉ざされてしまう。対偶命題を立てて外部思考を試みて主観と客観を一致させ空に至ろうとすれば、未来が拓かれる。実は、内部には境界が属さないのだから。

No responses yet

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

Wordpress Social Share Plugin powered by Ultimatelysocial