依存症と習慣

ぼくらは「習慣」という言葉をネガティブな意味には使わないが、「依存症」という言葉は100%ネガティブで、実は同じことを両方の言葉で表せることが多いように思う。

吉野家の重役が「若い生娘をシャブ漬けにする」と言ったとか。ずいぶんな表現であり、依存症ビジネスをしていることの堂々たる表明だが、同じことを「若い女子に吉野家の牛丼を食べる習慣をつけてもらう」と言ったら、何の問題にもならなかったんじゃないか。

その場でのウケ狙いでこの言葉を使ったに過ぎない重役には同情する。みんなが責めているのはきっとその表現だ。だが、問題は内容そのもので、明らかにもっと広くて深い。

ぼくは冒頭に書いたことを再認識させられた。つまり、吉野家がヤバイというよりも、資本主義というもの全体がヤバイということだ。

創造的な仕事は、誰かに気づきや発見を促す。それが依存症ビジネスの対極にあるものだろう。

だが、それは継続的な仕事になりづらい。創造的であるには大きなエネルギーを必要とし、継続的に創造性を発揮するのは困難である。つまり、安定した売上げを上げることが難しい。

だから、ほぼ全ての会社が、創造性を捨てて依存症ビジネスへ向かう。どうやって、客をボーッとした中毒患者にするか?それを考えるのが大半の会社の仕事になってはいないか。

矛先はもちろんぼくらにも向いている。ぼくらは依存症を生み出してはいないか?一旦、万人受けするイメージをつくり出して、一定の人が長期に亘ってぼくらを支持するようになれば、それは依存症ビジネスではないのか?

ぼくらも、生み出した空間で過ごす人々も、創造性を手放さずに生きることができるか?

この問いに向き合う緊張感を忘れてはならない。

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