The Art of Tea TOKYOの空間
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みなさん、お元気ですか?GRIDFRAMEの田中です。
今回は、SOTOCHIKU素材を千葉・鋸南町と奥能登へ採取に伺い、それを用いた空間プロジェクトとして東京・浅草に南部鉄器と茶器/茶葉のお店【The Art of Tea】が完成しましたので、詳細をお伝えいたします。
<The Art of Teaの空間コンセプト>
1848年創業の南部鉄器の「及富」https://oitomi.jp/の工房は時間を記憶した、まさにつくるための空間であり、その工程一つ一つが大変な手作業の連続です。今回のお店は、「及富」初の専門店になります。


また、茶葉/茶器の「HOJO」は、山に自生する本物の野生茶にこだわり、その濃い後味と長い余韻を求めて雲南省の山中に足を運んでいらっしゃいます。また、茶器もお茶をおいしくする素材にこだわって、焼き方、デザインなどを急須作家とともに検討し、他にはない急須を販売していらっしゃいます。


この二つの会社の姿勢自体がSOTOCHIKU的であり、もちろん商品もSOTOCHIKU空間に溶け込むことで魅力を発揮するという確信を得ました。
浅草・合羽橋は日本文化に敬意を抱く多くの外国人で賑わっています。The Art of Teaという店名は、外国人にとってまさに茶道文化を連想させることでしょう。
ぼくは茶道を確立した千利休の茶室をSOTOCHIKU空間そのものだと思っており、この空間ではSOTOCHIKU空間に徹しようと思い、利休と同時代の茶人について言及し、次のようなコンセプトストーリーをご提示しました。
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【侘び人善法の茶】
茶道の起こった頃には、天下人秀吉から、茶釜一つしか持たぬ善法まで、とても広い範囲に亘った人たちがこれに参加をして、その名をとどめている。
茶道のコンセプトである「侘び」とは「名馬を藁屋に繋ぎたるが如し」という言葉に表されるように、高品格とありふれたものの対比に美を求めたもの、もっといえば、ありふれたものをバックグラウンドとして、高品格のものを置いた状況に美を求めたものといえないだろうか。
しかも、その心持ちにはある流れがあって、高品格からありふれたものへ、高きから低きへ、というベクトルが強く感じられ、単純な比較によって、高品格を更に際立たせようとするものではないように思われる。
だからこそ、茶釜一つしか持たぬ善法を侘び人と呼び、彼こそを理想とし、彼のものにつかない、争わない、清らかな精神こそを戦国に生きる者たちに、さわやかな風のように吹き込もうとしたのだろう。
全てのものは時間と共にカタチを失っていく。茶道とは、そんな自然の法則の中に身を任せ、カタチを取り払った後に残る人格をお互いに見つめ合い、認め合う場にその原点がある。
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このストーリーにふさわしいSOTOCHIKU素材に出会うこと。出会いはコントロールできませんが、出会いを求めて動き回ることと出会ったモノに一対一で向き合うことが唯一未来を拓く道です。
<鋸南町からの素材>
8月10日に千葉・鋸南町へ古い木造倉庫が壊されて梁材を引取りに伺いました。この倉庫は2021年夏の【全国一斉】SOTOCHIKUシャルソンと呼ばれる、全国でSOTOCHIKUを探して写真を投稿し合うfacebookのイベントを開催したときに、100人以上が参加して1000枚以上の写真が集まった中でもベスト15に選ばせていただくほど深く印象に残っていた建物でした。



そのときのぼくの寸評を紹介しますと・・・
完璧な姿の重い瓦屋根を、ボロボロの下部構造が支えている。その頑張っている感じが、この建物へ感情移入させる。「大丈夫ですか?」と声をかけたくなるSOTOCHIKU。寄付されたら、SOTOCHIKU素材として下部から部分的に使用可。もしくは、補強を施して、SOTOCHIKU建物としてリノベーション可。
・・・というわけで、投稿写真で出会ってから3年の時を経て、寸評通り、部分的に使用させていただくことが実現して、とてもうれしく思います。上の写真の右の梁材が今回採取させていただいた素材です。
また、鋸南町からは他にvol6で詳しくお伝えした第1回ペンキのキセキで収穫された塗装鉄板を使用しました。
<奥能登からの素材>
そして、8月15日から18日まで奥能登へSOTOCHIKU素材を寄付していただくために行ってきました。奥能登は、ぼくにとって4回目。スタッフMさんにとっては9回目。そして、今回初参加の「能登のSOTOCHIKU素材で下駄をつくりたい」と言われる靴職人のUさんが車に同乗し、3人でにぎやかに能登へ向かいました。SOTOCHIKUが建築以外の世界にも広がっていくのは、とてもうれしいことです。
今回はあばれ祭でお世話になった宇出津のOさんから、SOTOCHIKU素材をご寄付いただける宇出津近辺のお宅を2つご紹介いただいたために東京からハイエースでやってきたのでした。
vol8でも書いたとおり、魂が宿っていなければSOTOCHIKU素材とは呼べません。可能であれば、持ち主にインタビューさせていただいて、素材と関連した思い出などを語っていただきます。インタビューができない場合でも、ぼくは素材が記憶する時間をできるだけ心に描いてみようと向き合います。


8月16日、まずは、宇出津から車で数分の矢波という海沿いの集落の家が解体されるので、床板を寄付していただきました。畳下の床敷きにもかかわらず、寸分の隙間も見られない、とても丁寧に施工されたものでした。また300ミリを超えた幅のモノも多く、太い木から採られたものであることがわかります。


その後、宇出津の八坂神社の近くの家へ移動し、地震の被害で屋根を葺き替えたために下ろした瓦を寄付していただきました。2階では雨漏りがひどいため、部屋の中にもブルーシートが張られていた状態が工事があった昨日まで8か月近く続いて、持主のIさんは漏電の心配から元旦から一度もテレビを観られなかったそうです。
葺き替えの職人は人手不足で京都の職人さんにお願いしたそうです。能登瓦はもう手に入らず、ガルバリウム鋼板に替わり、だいぶ軽くなりました。それだけ、地震には強くなったといえます。
Vol8でも言及した通り、否応なく今の風景は新しい風景に変っていきます。奥能登の象徴的存在だった能登瓦の風景はこれからどんどん少なくなっていくでしょう。
Iさんは小学生のときに輪島から宇出津へ引っ越されました。その頃は田んぼの中にこの家だけがポツンと建っていたそうで、あばれ祭の華やかに灯りを纏うキリコが目の前の広場で輪になって動くのを2階からワクワクしながら眺めていた、と仰います。


ご親切にもOさんがもう一か所、珠洲市正院町の羽黒神社をご紹介くださり、急遽お訪ねしました。能登地震では、津波、隆起、火事などさまざまな被害が発生しましたが、地震のみの被害としてはこの正院町が最大ではないかと言われています。神社の本殿が崩れ落ちているように、周辺の家屋もほぼ全壊状態です。
公費解体は住宅が優先され、住宅もまだ10%程度しか進んでいない状況の下、寺社仏閣はこのままの状態が数年は続くのではないか、と言われています。ちなみに、ぼくは奥能登の神社で鳥居が無事に立っている姿を見たことがありません。
宮司さんはお忙しい中わざわざ神社へお越しくださって、羽黒神社の歴史や現在の状況について丁寧にご説明くださいました。
592年、蘇我馬子に崇峻天皇が暗殺されたとき、第三皇子である蜂子皇子は聖徳太子の助けにより北陸へ逃れ、能登半島から船で海上を渡り、佐渡を経て山形県の由良の浦に辿り着きました。そこで出会った髭の翁に大神の鎮座する山をめざすように言われたが、途中道を失ってしまいました。そのとき、片羽八尺(2m40cm)もある3本足の大烏が飛んできて、皇子を山の中の昼なお暗い秘所へと導きました。これにより、皇子を導いた烏にちなんで山を羽黒山と名付けられた、といわれています。蜂子皇子はここで来る日も来る日も修行を積まれ、羽黒山、月山、湯殿山の出羽三山神社を開祖されたということです。そして、皇子の辿った日本海側の足跡に羽黒神社が点在しているそうです。
さらに、奥能登の地名にある、「八ケ山」や「鉢ヶ崎」も蜂子皇子に所縁があるのではないか、とブログに書かれています。https://ameblo.jp/hagurotetsu/
上の左の写真の屋根だけが残った本殿にブルーシートが張ってあるのは、ご神体をはじめ様々な大事なものを救出するのに、その部分の屋根だけ解体したからだそうです。さまざまな大事なものを救出された様子をブログでご覧になれます。
上の右の写真には、救出された絵馬とおみくじが大切に掛けられています。本震が到達した元旦16時10分までに祈願されたものですね・・・。
各地方での祭りには、奥能登にある各神社から宮司さんが集められます。宇出津のあばれ祭では、神輿と一緒に各家庭を回り、ご祈祷されたそうです。ご自身も仮設住宅に暮らしながら、被災者の方々を支えるために大忙しの毎日を送られています。
こちらからは、扉と瓦を採取させていただきました。
それぞれ、奥能登のみなさんが過ごしてこられた時間を記憶する大切なものとして、大切に使わせていただくことを改めて心に誓いました。みなさま、ありがとうございました。
<The Art of Teaの空間>

店内左には75個の南部鉄器が並べられる棚、真ん中に6メートルの長いカウンター、右には茶器と茶葉のための違い棚、という空間構成です。
【カウンター】



GRIDFRAME構造の中に、華やかなペンキのキセキ鉄板を割いて自由なカーブで描いた「あばれ波」と能登瓦を並べた「いらかの波」。



ぼくが4月に見た、地震で崩れ落ちた大屋根は龍の背のようにうねり、今にも天へ昇っていくような躍動が予感され、それはむしろ、来るべき未来へ運んでくれる乗り物が乗客を待っているかのようでした。
そんな物語を想起しながら、ひたすらこの空間をつくっていきました。






天板には、鋸南町の木造倉庫の梁4本を組合わせて、その隙間にイカ墨を混ぜたコンクリートを打ちました。
【南部鉄器の棚】




8月17日に輪島の西部にある門前町を訪れました。今回の地震では、奥能登全体の地盤が傾いたと理解しています。奥能登の北西部にあるこの地区の海岸沿いは最大4mも地盤が隆起し、南東部にある宇出津界隈は逆に地盤沈下しています。
その門前町の名前の由来でもある総持寺という壮大なお寺も地震で大きな被害を受けました。しかし、大祖堂正面の彫刻は周りの被害を忘れさせるほどの迫力で迫ってきました。人を覚醒させるようなこの躍動的で立体的な造作が持つ力をこの空間にも取り込みたい、というのが今回ペンキのキセキの鉄板を割いて「あばれ波」として配した理由です。
最下段に能登瓦、棚板には能登の床板を使用しています。

【茶葉/茶器の違い棚】


棚板には能登の床板、縦束には鋸南の梁材を割いて使用しました。背景は江戸時代後期の屏風絵(森探玉斎)。
【The Art of Tea】は、初めて出会う素材に向き合い、何かを感じ取った瞬間にそれをものつくりの中で生かしていくことを繰り返す、というつくり方で実現したSOTOCHIKU空間です。
このお店に訪れる方々が、一つ一つの商品にかけがえのないモノとして向かい合う空間になることを願っています。
このようなつくり方であれば、例えばVol5で書いたような4月時点の輪島朝市のような焦土も、スクラップ&ビルドで刷新することなく、明るい未来を描ける場所へつくり変えていけるのではないか、と考えています。
奥能登にご縁のある方へお願いがあります。
小さなプロジェクトでいいんです。ぼくらに能登半島地震で壊れた空間を再生するチャレンジの機会をいただけないでしょうか?
お声がけいただいたら、とことんお話を伺うところから始められれば、と思います。
次号も、SOTOCHIKUの様々な活動について、お伝えしたいと思います。
2024 年 8 月 31 日 GRIDFRAME 田中稔郎
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